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広報ところざわ令和3年1月号3所沢市は持続可能な開発目標(SDGs)に取り組みます。 古代の人々の生活の場は、水の豊富な狭山丘陵の谷間や柳瀬川沿いが中心。所沢の地形や立地を生かしながら、現代に続く文化の礎いしずえを築いていきました。今は住宅地となっている場所もありますが、暮らしの跡が多く出土しています。 時は旧石器時代。人々がまだ狩猟や採集をして暮らしていた原始的な時代に欠かせなかった道具が「石器」。三ケ島の砂川遺跡では、昭和41・48年に発掘調査が行われ、769点の石器のかけらが出土しました。 それらを接合し、原石から石器を製作する過程を復元したところ、ナイフ型石器の製作工程が明らかに! 現在の所沢には、交通量の多い幹線道路があり、日々多くの人々が行き来しています。実は、今からさかのぼること千年以上前、奈良・平安時代の所沢にも大きな幹線道路がありました。 その跡が見つかったのは、南陵中学校(久米)の校庭!これまでの調査で、この場所を含む約30万㎡にもおよぶ大規模な集落「東の上遺跡」が発掘されています。 幅12mもの大きな道路跡は、武蔵国の国府(今の東京都府中市)と地方を結ぶ幹線道路「東とう山さん道どう武む蔵さし路みち」。周辺では、墨で文字が書かれた墨ぼく書しょ土ど器き、朱しゅ墨ぼくが付着した硯すずり、奈良時代の暦の一部が記されている漆うるし紙がみ文もん書じょ、馬具など、一般の集落では見られないものが多数出土。この辺りに何らかの行政機関、もしくは駅のような施設が置かれていた可能性があるのです。古代南陵中学校の校庭で見つかった古代の幹線道路は?▲昭和41年の発掘調査▲発掘された道路跡。ここを多くの人が行き来していたのでしょう▲ナイフ形石器 古墳時代の古墳群が市内にあるのをご存知ですか? 1つ目は山口地区の岩崎古墳群。直径約20mの円形の古墳跡では、装飾品や直ちょくとう刀などの象徴的なものが出土。地域の有力者が埋葬されていたと考えられます。 岩崎古墳群から西に向かうと、直径25mほどの円墳などが見つかった海かい谷や古墳群があります。装飾品のほか、小刀や鉄製の矢尻なども出土。武装者集団が埋葬されていたのではと言われています。 どちらも現在は住宅街や道路になり、当時の姿は残っていませんが、古代のロマンがぐっと身近に感じられますね。 これらの調査では、石器の出土地点を記録し、発掘後に石器の接合を試みるという手法を採用。石器の製作過程、そして石器を通じて人々の暮らしを明らかにする研究として価値のあるもので、出土した石器は国の重要文化財に指定されています。 また、砂川遺跡からは住居や墓などの跡は見つかっていません。つまり、人々はこの場所に定住したのではなく、テントのような簡易的な住居を使い、周囲を転々とする暮らしをしていたことが推測されます。◀所沢に残る最古の文書。漆の器のふたに再利用されたため、漆の成分で腐らずに残った!4面のクイズの答えとつなげて15面のクロスワードのカギを解こう!

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