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������勝しょうらくじ楽寺 前号「さ」の回でも触れたように、狭山湖(山口貯水池)の湖底に沈んだ村として知られています。奈良時代の創建と伝える「勝楽寺仏ぶつぞういん 蔵院」から取られた村の名は、明治35年に山口村、上山口村と合併して新生「山口村」の一部となるまで続きました。狭山丘陵の谷の一番奥に位置し、水に恵まれて古くから人が住み、農業だけでなく織物の生産などで大いに栄えました。現在、上山口の高たかばし橋交差点から西に向かい狭山湖の堰えん堤に突きあたる道は、村の中央に位置していた仏蔵院の前を通り、物資の集散地である五日市や八王子と所沢を結んでいた街道の名残です。貯水池建設後の仏蔵院は、下山口駅に程近い場所へ移転しています。神しんめいしゃ明社 伊勢神宮と同じ天あまてらすおおみかみ照大神を主祭神とする神社で、市域では宮本町(旧所沢町鎮守)、大字中富(旧富岡村鎮守)、大字牛沼(旧牛沼村鎮守)の3か所に鎮ちんざ座します。宮本町の神明社は、江戸開府以前の弘こうじ治2年(1556)に勧かんじょう請されたという伝承を持ち、牛沼と中富の神明社は江戸時代の創建です。牛沼の神明社は宮本町の神明社を分霊したものといいます。将しょうぐんづか軍塚・白しらはたづか旗塚 鎌倉幕府を滅ぼした新にった田義よしさだ貞ゆかりの場所と伝えます。将軍塚は八国山(松が丘一丁目)の頂に築かれた小さな塚で、義貞が床しょうぎ几(腰掛の一種)を据えた所であると、また埋蔵文化財調査センター(北野二丁目)裏に位置する白旗塚は、義貞が源氏の象徴の白い旗(降伏の意味ではありません)を立てた場所と言われています。ただ、これらの塚がもともと何のために築かれたかは、現在もはっきりわかっていません。問い合わせ 生涯学習推進センターふるさと研究グループ ☎2991‒0308 52991‒0309あこがれの友 下富 新井 智子 彼女とは高校一年生のときにクラスメイトとして出会った。背が高くほっそりとしていて、教壇でテレビのものまねをする姿は注目の的だった。そんな彼女がある日「親友になって」と言った。うれしいというより「何で私なんか」という気持ちで不思議な気がした。 それ以来、何十年と近くに住み、互いに二人ずつ男の子を持つ母親としてとても良い関係を続けている。中年になり、いろいろ不安材料も増えてきた。そういうときいつでも何時間でも話し合える仲歴史まめ知識ところざわ13勝しょうらくじす。奈良時代の創建と伝える「勝楽寺られた村の名は、明治35年に山口村、上山口村と合し◆テーマ「友」◆◆◆ 所沢市域にかかわる歴史的事項を50音順に紹介しています。今号は「し」です。「皆さんが愛情を込めて育てたひまわりの中で歌うのは、いつも以上に気持ちがよいものでした」と、地元で活動してきたこの1年を振り返ります。 小学校3年生から所沢育ち。高校3年生までバスケをするなど活発な子どもだった間瀬さんも、現在は22歳。「等身大の女性の恋する気持ちを歌うことが多いので、同世代の女性に共感してもらえたり、勇気を与えることができたらうれしい」と歌に込める想いを語ります。「今ではいろいろな場所で歌わせていただくようになりましたが、私の原点は所沢。応援してくださる皆さんのあたたかさにいつも元気づけられています」。今年2月にはワルツホール所沢でファーストコンサートを成功させました。「次は所沢が誇る音楽ホール・市民文化センター・ミューズでコンサートをすること、そしていつの日にか紅白に出場することが夢です!」と瞳を輝かせます。 まぶしいほどにキラキラした笑顔が印象的な間瀬さん。所沢から大きくはばたこうとしている歌姫をみんなで応援していきましょう!歌手 間ませ瀬 しずかあふれる恋心をメロディーに乗せて▲市内のステージで歌う間瀬さん▲旧勝楽寺村の風景(昭和初期)『若手ミュージシャン発掘支援プロジェクト』第3弾アーティスト▲所沢から元気を発信しようと開催された「第17回とことこタワーまつり」。コンセールタワー前では、力強い空手の演舞が披露されました。5月8日㈰/元町コミュニティ広場ほか(撮影:市民カメラマン・池田敏明)▲市内11会場で男子・女子の部合計90チームが熱戦を繰り広げた「市民体力つくりソフトボール大会」。バットが風を切り裂き白球を捕らえます。5月8日㈰/北中運動場(撮影:市民カメラマン・佐藤清一郎)真・原稿は返却しません▶住所・氏名(ふりがな)・電話番号を明記し〒359-8501広報課「みんなの広場」係へ郵送または hiroba@city.tokorozawa.saitama.jp広報 平成23年6月号 8

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