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飛行場の整備は、明治43年10月に着工、翌44年4月に、長さ400m、幅50mの滑走路と格納庫・気象測定所・軽油庫などの主要施設が建設されました。当時の滑走路は、現在の所沢航空記念公園中央にある放送塔を中心に東西に伸びており、所沢航空発祥記念館前にある沈床花壇のあたりが開設当時の滑走路でした。その後は、時代とともに滑走路の場所が変わり、現在の米軍所沢基地内に南北に伸びていた時代もありました。 また、飛行機を運搬するため、現在の飛行機新道と呼ばれている道路が完成しました。 こうして当時の所沢町と松井村の畑と山林を買収して開設された所沢飛行場は、日本初の飛行場として航空史を彩るさまざまな場面の舞台となっていきます。 明治44年4月5日、徳川好敏大尉が、アンリ・ファルマン機で飛行時間1分20秒、高度10m、距離800mの所沢飛行場での初飛行に成功しました。 所沢・松井地区の住民は特別観覧所で飛行を見物し、一般の来場者は数千人に達したということです。その後の訓練日には桟敷が設けられ、滑走を上から見下ろし、飛翔のたびに人々の歓声が聞こえました。 大正元年(1912)には、11月15日から4日間にわたり、関東地方で陸軍大演習が実施され、川越・所沢を中心部の「会戦地」として、飛行機や飛行船が初めて作戦に参加します。 陸軍大演習には大元帥である天皇も参加して指揮をとり、ドイツから購入したばかりの大型飛行船パルセバル機や、徳川大尉の乗るブレリオ機、木村中尉の乗る徳川式第三号、ファルマン機などが上空から大演習を偵察しました。 この大演習期間中、所沢は多くの見物人でにぎわい、当時の新聞によれば、飛行機の絵葉書が人気で売れ行きがよく、飛行機の玩具やお菓子が店頭にならび、飛行機や飛行船が飛べば大騒ぎになったということです。 初飛行以後、国内では各地に飛行場が開設され、試験飛行が繰り返されるようになりましたが、航空技術やそれを伝える教育体制は立ち遅れていました。 このため大正8年(1919)1月、フランス空軍の将校であり、当時第一級の操縦士として知られるJ・P・フォール大佐(1869〜1924)を団長とするフランス航空教育団の一行が、初代航空本部長に招へいされ、来日しました。 一行は、所沢を拠点に各地の飛行場施設等を訪れ、15か月間にわたって日本の航空技術の指導教育にあたりました。 フォール大佐ら一行の帰国後、基礎的飛行技術と航空機工学の教育のため、所沢に陸軍航空学校が設立されました。大正13年に改編されて所沢陸軍飛行学校となりますが、昭和13年には、陸軍飛行学校にかわり陸軍航空整備学校が所沢に創設され、終戦の年まで整備教育がされました。 所沢飛行場は開設以後第二次世界大戦までの間に3度の拡張が行われ、当初は76・3haであった敷地面積も徐々に拡大されていきます。 明治43年4月15日に用地買収が開始されてから約35年6か月、所沢飛行場は終戦によりアメリカ軍に接収され、「在日米陸軍所沢基地(米軍所沢基地)」と呼ばれるようになりました。 市では「日本の航空発祥100周年 所沢」を市内外に広くPRし、市の歴史・文化を伝え、地域活性化の契機とするため、記念事業を行ないます。今号では、所沢航空発祥100周年の歴史を振り返るとともに所沢飛行場当時を知る方の記憶をひもときご紹介します。日本の航空発祥100周年 所沢 所沢航空発祥100周年公式Webサイト http://tokorozawa.ko-ku-100.jp/所沢に飛行場が開設大正時代の飛行場所沢飛行場での初飛行所沢飛行場での初飛行フォール大佐の来日フォール大佐の来日所沢飛行場から在日米陸軍所沢基地へ所沢飛行場から在日米陸軍所沢飛行場から在日米陸軍所沢飛行場から在日米陸軍所沢飛行場から在日米陸軍所沢飛行場から在日米陸軍所沢飛行場から在日米陸軍▲空から見た大正時代初期の写真。上部中央あたりが所沢飛行場 左下が所沢駅、右が池袋方面、上が本川越方面 写真出展『雄飛 空の幕あけ所沢』 明治44年(1911)4月日本初の飛行場が所沢に開設されました。その年の4月5日には、アンリ・ファルマン機が、所沢飛行場での初飛行に成功しました。 所沢市は、この歴史的な経緯から「航空発祥の地」と呼ばれています。広報 平成23年4月号 8凡例…日日時 場場所 対対象 定定員 内内容 持持ち物 費費用 講講師 申申し込み 問問い合わせ HPホームページ 市HP市ホームページ「広報紙ピックアップ」 Eメール
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