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広報ところざわ令和3年1月号5 天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入城すると、中下級の家臣たちは江戸の周辺に領地(知ち行ぎょう地ち)を与えられ、家族や家来たちと暮らしました。知行地は江戸との間を1泊で往復できる範囲内に置かれ、江戸に近い所沢にも多く存在。当初、領主たちは江戸まで「通勤」していました。特に、近世初期から所沢に住んでいた家臣たちは地域とのつながりも深く、市内にゆかりの寺や墓などが残されています。 山口地区の岩崎に伝わる市の無形民俗文化財「岩崎簓ささら獅子舞」は、当時の地頭・宇う佐さ美み助すけえもん右衛門が大坂冬の陣からの帰りに京都から獅子頭を持ち帰り、村の若者に稽古をさせたのが始まりといわれています。毎年10月に獅子舞が奉納されている瑞岩寺には、宇佐美氏の墓があります。▲竹で作られた「簓ささら」の音に合わせて、太鼓を鳴らしながら舞い踊る獅子舞▲瑞岩寺の宇佐美氏の墓(撮影:山畑寿雄さん) 「所沢市史」全14巻の内容をコンパクトにまとめた冊子「ところざわ歴史物語」がリニューアル!新たな情報を加えた増補改訂版として15年ぶりに刊行しました。 所沢の成り立ちから現代まで、盛りだくさんの一冊は、生涯学習推進センター、市役所1階市政情報センターで1冊2,000円で販売中!後に商業的な発展も遂げ近代を迎える所沢。明治期の鉄道の開通や日本初の飛行場の開設などによりさらに大きく発展し、そして市制を施行して70年の節目を迎えました。これからのふるさと所沢をつくっていくのは、今を生きる私たち、そして子どもたちです。未来の所沢に、乞うご期待!▲短冊状に区切られた地割りが特徴的な三富の景色 江戸幕府の繁栄に始まる近世に入ると、幕府と川越藩によって開発が進んだ所沢。住宅地と農地が混在する今の所沢の景色・文化を作るために汗を流した人々の姿にご注目。近世 所沢では、南永井村の名主・吉よし田だ弥やえもん右衛門が寛延4年(1751年)に息子を今の千葉県市原市に派遣して、サツマイモを買い求めたことから栽培が始まりました。その後、周辺にも栽培が広がり、集積地の川越の名をとって「川越芋」と呼ばれ人気を博しました。 南永井の吉田家には、栽培の始まりの地を示す記念碑があります。また、神明社(中富/通称「富の神明様」)には、サツマイモの神様「甘い藷も乃の神かみ」がまつられています(写真)。 「武蔵野」と聞くと雑木林の風景を思い浮かべる方が多いのでは?しかし、昔の武蔵野は、ススキやカヤが茂る原野でした。そんな武蔵野は近世の開墾で大きく姿を変え、人々の暮らしは丘陵の谷間や川沿いから武蔵野台地にも広がったのです。 近世の開発の歴史の名残は、今も地名などにある「新しんでん田」という言葉に見ることができます。例えば、市内北部の中富・下富と三芳町の上かみとめ富を合わせた「三富新田」。元禄時代に川越城主・柳沢吉よしやす保によって開発され、短冊状の地割りや落ち葉を堆肥にする循環型農業などが今も人々に親しまれています。

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