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ところざわ歴史まめ知識 今回は、巳み年どしに起こった所沢の主な出来事の中から3項目を選んで紹介します。 8代将軍吉宗の時代、幕府は財政難解消のため武蔵野の原野を開発する政策を打ち出します。江戸町奉行の大おお岡おか越えち前ぜんの守かみ忠ただ相すけがこの事業を采配し、享保10年、配下の代官岩いわ手て藤とう左ざ衛え門もんによって武蔵野の一部「所沢原」も分割され、開発すべき場所として周辺の村に割り当てられました。ここで言う「所沢原」は、現在の市域の北西寄りの一帯の一部を指します。開発が完了するまで何年もかかりましたが、手つかずの原野が生活空間に組み込まれる第一歩となりました。 この年、所沢村は戸長と村民300人余りの連名をもって、「所沢町」への改称を県庁に願い出ました。「所沢村は幕末から次第に繁栄し、特に維新後は商業を営む者も増え、町場として周辺の農村の中心となっている、そこで村民の宿願として『所沢町』という名称に改めたい」という趣旨でした。この時期の「町」は現在のように人口などの要件を必要とせず、この請願は、およそ5カ月後に内務省によって認可され、「所沢町」が誕生しました。 明治時代に所沢の町場の発展を支えた織物産業は、洋装の普及とともにかげりを見せ始めます。業界の企業努力の中で設立されたのが湖月会で、業界有力の平岡徳次郎商店を中心に、川越の県立工業学校を卒業した技術のある機業家が集い、流行を意識した商品を世に送りました。デパートでの品評会や婦人雑誌への広告掲載など宣伝にも力を注ぎ、「湖こ月げつ明あか石し」などの夏物おしゃれ着は、昭和不況期まで所沢の織物業界をけん引しました。享保10年(1725)「所ところ沢ざわ原はら」分割明治14年(1881)所沢「町まち」誕生大正6年(1917)湖こ月げつ会かい発足31だ問い合わせ 生涯学習推進センターふるさと研究☎2991‒0308 52991‒0309▲ 湖月明石の宣伝ポスター 旭町 野村 小雪 空気がキィンと張りつめた朝。通勤用の自転車のハンドルが冷たい。今年もまた、冬がきたのだ。冬は一年の一番最後にやってくる。だから神聖な感じがする。一年前の自分と、今の自分を比べてみたりする。そんな季節は冬だけ。 ある年の初雪の夜、私は生まれた。だから名前に「雪」が入る。祖父が付けてくれたのだ。 私と祖父は親友だった。文章を書いていた祖父の仕事場に、幼い私は入り浸りだった。そして一緒にいろいろなことを書いた。ある日、新しいケーキ屋さんのことを書いていたら祖父が、手をつないでケーキ屋さんに連れていってくれた。でもそれは祖父が行きたかっただけなのだと、私は知っている。だって私に負けじと、甘いものに目がなかったもの。そんなとりとめのない事を思い出すのも、いつも冬。大好きだった祖父が、眠りについた季節。 上安松 金澤 房子 先日、老齢の友人から手編みのマフラーを頂いた。今まで手編みのマフラーなどプレゼントされたことがない私は、嬉しくて、毎日巻き方を工夫しながら愛用している。編むことがストレス発散で、毛糸の玉を見ると幸せな気持ちになるというその友人は、昨年はレッグウォマーを30組以上も作り、孫や友人たちを喜ばせた。何でもお金を出せば、安易に物が手に入るこの時代に、贈る相手の笑顔を思い浮かべては、一目、一目編み進める…彼女には膝の痛みで病院通いをすることがあっても、肩こりはいっさい無いという。人の為に編む幸せな心がなせるわざか。今日もまたせっせと編み続ける彼女にとって、この冬が身も心もあったかでありますように…。特別な季節あったかな冬◆テーマ「冬」◆◆◆▼所沢の農家と豆腐職人に、大豆の種まきから収穫・豆腐づくりまでの指導を受けた『三さん富とめ大豆の学校』の最終回。農の営みを学び、自ら育てた大豆でよせ豆腐を作り、おいしくいただきました。 11月25日㈰/富岡まちづくりセンター (撮影:市民カメラマン・津田資雄)▶紙ヒコーキの滞空時間でギネス記録に挑戦した『2012折り紙ヒコーキ大会in所沢』。残念ながらギネス記録は生まれませんでしたが、幼児から大人まで200人を超える参加者が、記録を目指して思い切り腕を振りました。 11月25日㈰/市民体育館 (撮影:市民カメラマン・佐藤清一郎)校』せ豆腐を超える参加体育館)広報 平成25年1月号 6稿は返却しません▶住所・氏名(ふりがな)・電話番号を明記し〒359-8501広報課「みんなのひろば」係へ郵送または hiroba@city.tokorozawa.saitama.jpなひろばばの

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