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ところざわ歴史まめ知識 所沢市域にかかわる歴史的事項を50音順に紹介しています。今号は「の」です。 昭和戦前期、アメリカのロックフェラー財団は、日本の公衆衛生向上のため「都市保健館」と「農村保健館」を設立し、前者を京橋(東京都)に、後者を当時の所沢町大字所沢、現在のくすのき台に置きました。日本の保健所制度のはじまりです。やがて昭和16年に「所沢保健所」と改称され、39年に今のけやき台へと新築移転、平成22年に狭山保健所へ再編統合されるまで、地域の公衆衛生の要として長く役割を果たし続けました。かつて所沢保健所の敷地にあった「保健所発祥之地」碑は、統合ののち、所沢駅東口(くすのき台)へ移設されています。 昔の農業には原野から採取される草が欠かせませんでした。燃やした後の灰を畑にまいたり、草のまま敷き込んだり、あるいは家畜の飼料として、原野と隣り合わせに生きる農民は、武蔵野の恵みを大いに活用していました。原野には特定の領主がおらず、複数の村が幕府に「野の銭せん」を納めて採草の権利を得ていました。この野銭を徴収するのが「野守」で、中世以来の有力な上層農民から選ばれました。江戸中期、大規模な開発が原野の大半を畑に変えるまで、野守は村の枠を超え広い範囲に影響力を及ぼしました。 江戸時代は兵農分離の時代ですが、開国前夜の対外的な危機感や国内治安の悪化によって、農民を兵士に組織しようとする動きが起こります。そうして組織された農兵は、平時は農業に従事しつつ銃の扱いなどの調練を積み、有事に備えました。特に、幕府代官江え川がわ英ひで武たけが、上新井村や三ヶ島村などの市域も含む支配地に組織した農兵は、慶応2年の武州世直し一揆の鎮圧に威力を発揮し、他の地域の先駆けとなりました。農のう村そん保ほ健けん館かん野の守もり農のう兵へい▲『第6回世代間交流フェスティバルinしんとこ』で行われた「エコクッキング」。参加者は、加熱沸騰後に火から下ろした鍋に、綿を入れた帽子をかぶせて熱を逃さず保温することで、素材を軟らかく煮ることができることや、エネルギーの削減につながることを学びました。 6月3日㈰/新所沢まちづくりセンター (撮影:市民カメラマン・佐藤清一郎) 林 小野 進 エンジン2基が次々に始動し、車輪止めが外され、まるでビアダルに翼が生えたような機体が動き出し滑走路へ向かう。いよいよ離陸だ!エンジンがフルパワーになり、ごう音をあげて走り出す。重そうに見える機体は軽やかに舞い上がり、やがてその姿は青空に溶け込で行く…。 所沢航空記念公園に展示されているC‐46愛称「天馬」を見ていると、30年以上も前、この機体が現役だったころの雄姿が懐かしく思い出される。 上安松 斉藤 和男 飛行機の思い出再会◆テーマ「飛行機」◆◆◆る子どもたちの姿を見ていたので、常に物を援助されて生きて行くのが当たり前になっては困る。そして、私は物を援助しに来たのではなく、勉強を教えに来た」との思いから与えませんでした。 高橋さんが赴任した地域は農村部のため、ほとんどの生徒は小学校を卒業すると農業に従事します。「中には技術者や医師などになる目標を見つけ、熱心に私の自宅を訪ね勉強を教わりに来る生徒もいました。そんな生徒たちの姿を見て、教える楽しさを知りました。そして、私も新たな目標を見つけました」と言います。現在、高橋さんは、通信教育で教員資格を取得するため勉強をしています。「教師になって少しでも多くの日本の子どもたちに、タンザニアなど開発途上国の生活様式や文化、価値観の違い。そして世界の広さを教えたい」それが、高橋さんの新たな目標です。青年海外協力隊としてタンザニアに赴任25の▲保健所発祥之地の碑(所沢駅東口)問い合わせ 生涯学習推進センターふるさと研究☎2991‒0308 52991‒0309▲タンザニアでの授業の様子(右が高橋さん)高橋 太一さん(青葉台在住)▶むし歯・歯周病の予防と相談のほかにも、おとなの健康づくりコーナーやAED体験などが設けられた『第50回歯の衛生週間行事』。歯みがき指導のコーナーでは、家族みんなで指導を受けました。 6月10日㈰/保健センター (撮影:市民カメラマン・木村清貴)づ広報 平成24年7月号 8稿写真・原稿は返却しません▶住所・氏名(ふりがな)・電話番号を明記し〒359-8501広報課「みんなのひろば」係へ郵送または hiroba@city.tokorozawa.saitama.jpひろばば

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