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子どものころは、蚕の手伝いといえば、回かい転てん蔟まぶしの下にもぐってのふん尿の片付けでした。作業していると、蚕のふん尿が顔にかかり臭いので手伝うのが嫌でした。 10年ほど前に無農薬農法で野菜を作りたいと勤めていた会社を退職し、父から借りた畑で小麦などを育てていましたが、畑で収穫したものからの収入だけでは生活するのが厳しく、そのうち少しずつ養蚕を手伝うようになりました。始めは、飼育方法や養蚕の用語すらわかりませんでした。でも次第に蚕は手を掛けただけ良質の繭が出来ること、養蚕は、長年の経験や知識が必要で、マニュアルなどで技術を伝承できるものではないことが分かってきました。 父の仕事を引き継がなければ、日本の伝統産業である「養蚕」の姿が消えてしまいます。私もまだまだ、知識や経験が不足していますが、父から教わりながら、これからも養蚕業のともし火を消さないように守り続けていきたいです。 所沢を含む入間郡・多摩郡一帯は畑作中心の地域でしたが、農家の副業として江戸時代後半養蚕業を守りたいから織物が盛んに織られていたようです。 その後、我が国の織物業は明治、大正と輸出の花形産業として脚光を浴び、日本の近代化の一翼を担っていきました。戦前から、茶と並んで生糸は入間地域の重要な輸出品で、特に小手指や三ヶ島といった市の西部地域で盛んに行われていました。市内で産出された生糸は買かい継つぎ商たちが仲買商組合を形成して、買い集め、輸出向け絹糸の集散地であった八王子に運ばれて行きました。そのように所沢では、「織り」と「糸」の産出が並行して行われていた盛んな時期があり、広く愛された「湖こげつちぢみ月縮」や「所沢絣かすり」といったブランド織物も誕生し、関東でも有数の織物産地に発展したのです。 そうして中心産業となった織物業は、製品販売のためファッション雑誌へのポスター広告、「所沢小唄」などのレコード作製等を通じて、市民生活の中に深く浸透していきました。このころが所沢における養蚕業の最も華やかな時期でした。 しかし、その後の食糧増産政策による他の農作物への転換、生糸価格の暴落による桑そうえん園の整理、都市化の進行による桑園の転用等による影響で養蚕農家は激減し、現在は、わずかに4戸を数えるのみとなりました。 市内に残る養蚕農家が少なくなる中、現在も養蚕業を営んでいる小暮晴彦さん(北野南在住)の仕事をご紹介します。 養蚕の作業サイクル(配はいさん蚕から出荷まで)は、ほぼ1か月余りです。毎年5月中旬ごろから始まり、年3回飼育します。まず、JAいるま野小手指店に運ばれてきた稚ちさん蚕を取りに養蚕農家の皆さんが集まります。「今日から家族が増えてにぎやかになります。配蚕はまるでお嫁さんを迎え入れるようです」と晴彦さん。受け取った包みには約2万7千頭の蚕が収まっており、これから昼夜を問わず、家族を上げての作業が始まります。 蚕かいこは「食」と「眠」を繰り返し脱皮を経て成長していきますが、それに合わせて行われる行程には「上じょうぞく蔟(繭を作る場所を求めて、はい上がってくる蚕を拾い上げること)」「選せんけん繭(薄い繭や汚れた繭を取り除く)」などと難しい名前がついています。「昔は番付表を作って繭の出来を競い合ったほどです。上質な繭が出来たときは本当に嬉しくて苦労が吹っ飛んでしまいます」と奥さんの房子さんが話してくれました。 * * * 平成23年の繭の出荷は4戸の合計でわずか650・2kgです。丹精込めて作った繭は長野県の製糸所へ運ばれた後、京都府などの工場で反物などの製品になります。盛期に比べてわずかな収穫量ですが「配蚕が続く限り続けていきたい。しかし、年齢的にもいつまで続けられるか分かりません。後継者がいれば…」と養蚕農家の皆さんの思いは同じです。 高齢化や後継者問題、安い絹糸の輸入などの影響で、養蚕業が衰退しているのは寂しい限りですが、着物などの日本が誇るべき伝統の美も、こうした皆さんの地道な努力によって支えられていることを強く感じました。所沢の織物と養蚕 前頁でご紹介したように、私たちのふるさと所沢では、伝統のともし火を絶やさないように、しっかりと守り続けているさまざまな産業分野があります。 今回は、そうした人々の仕事の中から「養ようさん蚕」と「人形・羽子板」の2つをご紹介します。養 蚕「日本の美」を支える地道な仕事▲選せんけん繭作業▲回かい転てん蔟まぶしをつるす作業▲上じょうぞく蔟用ネットでの蚕の拾い上げ▲上じょうぞく蔟(仕切り拾い)▲機械での収しゅう繭けん作業養蚕の伝統を守りたいとの思いで、父の小暮晴彦さんから引き継いだ重行さん 〜所沢の地場産業の現いま場から〜【所沢市の養蚕業】▼戦前は小手指や三ヶ島の西部地域で盛んに行われる▼昭和30年には934戸の養蚕農家が存在し、174tを生産する(昭和30年12月末の人口:56,518人/10,691世帯)▼戦後まもなく、食糧増産政策による他の農産物への転換、昭和32年~33年の生糸価格暴落による桑園の整理・転用等により養蚕農家が減少する▼国の減産指導や生糸価格の大幅な引き下げを行ったことなどから、現在、市内に残る養蚕農家は4戸となる養蚕農家の現在小暮重行さん 〜所沢 〜所沢 〜所沢 〜所沢 〜所沢 〜所沢地場産業地場産業地場産業地場産業現現現現いまいま場『「地域」発「全国」へ!』明日へつなげる心と技特集「次の世代に伝えたいもの…ふるさと所沢の『今』」凡例…日日時 場場所 対対象 定定員 内内容 持持ち物 費費用 講講師 申申し込み 問問い合わせ HPホームページ 市HP市ホームページ「広報紙ピックアップ」 Eメール広報 平成24年1月号 4広報 平成24年1月号

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